70S3-IV (小三・四月号)

バレエ星
掲載 「小学三年生」昭和45年四月号
頁数 扉+19p.
総コマ数 90
舞台 病院/墓地/花田研究所
時期 1970年春
梗概 病床から起き上がりフェッテを踊って見せた母は、その場に倒れ息を引き取った。かすみは母の墓前にバレリーナとしての大成を誓う。第一病院の住み込みを続けながら、バレエのレッスンと台本執筆に勤しむ日々を送るかすみは、ついに母の悲願の『バレエ星』を書き上げた。喜びのうちに花田先生のもとを訪れるが、台本を読んだ花田先生は「幼稚園のお芝居」と酷評。あまりに大きな絶望に、かすみは書き上げた台本を母の墓前で破り捨てて死を願うようになる。
扉絵 2色/「谷ゆきこ」/「かなしいバレエまんが」/かすみの横顔の背景に鏡像が幾重にも映る象徴的なポートレート。今回のかすみの心の重大な危機と試練を予感させる。

母の死を乗り越えて、かすみは『バレエ星』を完成。しかし…

これまでのお話 [1]

かすみちゃんとアーちゃんのママは、有名なプリマ・バレリーナでした。
新しいバレエを作ろうと『バレエ星』という本を書いていましたが、とちゅうで重い病気になってしまいました。
ママは、かすみちゃんにりっぱなバレリーナになって、本を書き上げるようにたのみましたが……

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学年が改まった月の掲載であり、この回からの読者も多かったと思われるが、叙述は非常に簡潔である。

かすみの母がバレリーナである事はこれまでにも説明されているが、「有名なプリマ」という情報は今回が初出となる (*1)。ここでかすみは明確に“母のバレエの素質を受け継ぐヒロイン”として位置付けられ、この後の物語の中でのバレエとの関わり方や生きる姿勢に大きな方向性を与えられる事となる。

その観点から見れば、これまでの記号化されたバレエの象徴である“白鳥”の衣装ではない母のバレエ姿(右図版)がこのコマで描かれるのは、この『バレエ星』の物語が真の意味で“バレエもの”にシフトした事を表わすものともいえるだろうか(なお、ここに描かれているのは『眠れる森の美女』オーロラ姫の「ローズ・アダージョ」【動画】のイメージと思われる)。

母の死 [2~10]

[3] 「バ…レ…エ…星…の本を…」

母は臨終の際まで「バレエ星」の台本を気にかけている。最後に見せたフェッテは、彼女のバレエ人生の総決算であり、「バレエ星」の構想とともに娘に残したバレエの火種でもあった。

[4~5] 時間経過

事切れた母をベッドに写すまでの短い時間。[4][5]のコマを繋ぐスペースがスミベタで黒く塗られている。

[5] 臨終の床の母

ページ中央に配置されたコマに描かれる母の死の場面は、続くかすみの嘆きのシークェンスとともに、本作のリアリズムとリリシズムを純度高く描いている。
アーちゃんの号泣する姿に見られるように、谷作品における幼児の飾らない感情の描写は、しばしば生々しく心に突き刺さる。

[6~10] 母の死を嘆くかすみのシークェンス

本回を『バレエ星』全編の分岐点として強く印象付けるシーンであり、本作でたびたび用いられている映画的演出効果がここでも見られる。
コマが進むにつれてクローズアップ、次第に嗚咽の声は小さくなり、ページを改め[10]の見開き大ゴマでは無言のまま涙するかすみのアップで終わるシークェンス。
かすみは母の死にいつまでも涙しているわけにはいかない。母に託された使命と、残された幼い妹のために生きなければならないと自覚する。

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号泣するアーちゃんと対比するように配置される母の踊るイメージは、お馴染みの『白鳥の湖』のほか、『瀕死の白鳥』 (*2)【動画】をも想起させる。
いずれも本作中で最も“死の淵”に近い内容の今回と次回[70S3-V]を象徴するかのようである。

墓前のかすみ姉妹 [11~21]

[11] 桜と汽船

季節が春である事を示す桜。前段で亡くなったかすみの母の、その散り際のはかなさと潔さの象徴でもある。
汽船は続く場面の墓地が海(と港)を臨む場所にある事を示している。地域としては横浜あたりを想定しているのだろうか。

[12] 墓前のかすみ姉妹と花田先生

背景の柵が山手の外人墓地などを思わせるが、塔婆が立っているなど、日本で通常想定されるような(仏式の)墓地のようである。
墓石には「先祖代々の墓」とあり、苗字が彫られていないが、これは父方の墓所と考えられるだろうか(後出の情報からは母の出身は東北地方ー福島かーと推測される)。

[13] かすみのリボン

すでに葬儀も済み、あえて喪服という事もないのだろうが、黒のリボンを結んでいる(アーちゃんのリボンの色はわからない)。

[14] 母への誓いを確認しあうかすみと花田先生

互いに母のバレエへの思いを受け継ぐ意志を新たにしている。しかし、この二、三ヶ月(やむを得ぬ事情があったとはいえ)離れて暮らしていた二人の間に、少しずつ現状認識のずれが生まれてきている事が、続く[15]からの会話に見られる。二人の信頼関係のほころびは、当事者の気付かぬ間にひたひたと近づいていた。

[15] 「それじゃ、かえりましょうか」

花田先生は、かすみの病院住み込みを「母の介護のため」と認識しており、あざみさんの虐めに原因がある事に気づいていない。あるいは感じ取っていたとしても、それを深刻な問題と捉えていないようである。

[16] 病院住み込みを続ける意思を伝えるかすみ

「先生のおそばにいると、わたしついあまえてしまうんです」
「自分に、もっときびしくしなきゃいけないと思います」

花田先生はかすみの言葉を文言通りに受け止めてしまったようだが、それでよかったのだろうか。

これら言葉の言外には「今、本当に頼れる大人がいない、助けてほしい」という、かすみの心のSOSサインが響いていなかっただろうか。
そこまで思いつめなければならなくなってしまった原因をせめて理解してほしい、というかすみの本心は、しかし花田先生には伝わらなかったようである。

[17] 「どんな、つらいことにもまけない心… それはたいせつなことだわ」

擬似的母娘関係にあるとはいえ、花田先生が真の意味でかすみの保護者たり得たかどうかが問われる一コマ。彼女はかすみの言葉を(もちろん本心では不承不承ながらも)文言のまま表層的に受け止めており、この無理解が二人の信頼のみで結ばれた関係に大きく楔を打ち込む事になる。
ここで「どんな辛い事にも負けない心」を花田先生が真の意味で理解していなかった事は、物語終盤[71S4-IX : 52]に至って明らかになる。

[18] 「それじゃ、アーちゃんだけでもあずかりましょうか」

この言葉にアーちゃんは怯えるように硬直している。あざみさんには[70S3-II,III]で山中置き去りという一歩間違えば遭難死するような危険な意地悪をされ、その時の恐怖はアーちゃんの心に深いトラウマを残しているものと思われる。また、かすみにしても、そのようなあざみさんのいる花田研究所に妹を置く事に大きな不安を抱えているからこその病院住み込みだったのだが、花田先生はその事にまったく気づいていない。

[19] アーちゃんの引き受けを謝絶するかすみ

「ありがとうございます。でも、たったふたりのきょうだいですから」と、極力角の立たない言葉遣いで応じるかすみ。しかし本心では「花田先生はやはり真の事情を理解してくれなかった」という失望感が大きくあったのではないか。かすみがその後、自殺未遂の死線を彷徨う中で「花田先生なんか大嫌い」とうなされる遠因とも言えるだろう。

病院住み込みを続けるかすみ姉妹 [22~42]

[23] 「うれしいな、もうあざみさんにいじわるされずにすむんだもの」

アーちゃんは解放されたように喜ぶが、かすみとしては複雑な心境である。せめて幼い妹の気持ちには配慮してほしい、と花田先生に求めたかったところだろう。また、かすみも“長幼の序”や“寄宿者の分際”という忖度をアーちゃんに求めていた事は少なからぬ心の重荷だったに違いない。

[24] 車椅子の婦人

このコマ初出。古風な鼻眼鏡に象徴されるように上品な雰囲気の女性で、その後かすみの心の支えとなる。

【付記】この婦人は、長くこの病院に入院している人だろうか。時系列的には、かすみが病院住み込みを始めてからある程度の時間が経過した頃で、病院内の人々は「お掃除(を手伝っている女の子)のかすみちゃん」として認識しているものと思われる。後出[63]ではこの婦人がまだかすみの名前を知らない様子から、この第一病院に入院(あるいは転院)してからそれほど日が経っていないと考える事も可能である。

[25~30] 転がる毛糸玉

この何気ない日常的一コマが、二人の心をつなぐ糸となる。

[28]で、かすみは毛糸玉を拾おうとして屈む。脚の組み方など、バレエ少女らしく品のある仕草。

[33] かすみ姉妹の住み込みを渋る院長

情実だけではどうにもならない事は社会に多い。院長も二人に同情はするものの、母も亡くなり病院に身を置く理由がなくなってしまった今、引き続き住まわせるわけにはいかないのは当然の判断と言える。

[34] 二人の様子を見かける掃除婦

[70S2-III]でかすみを気遣っていた婦人。

[35] 「おねがいします。どんなことでもやります。だから……」

かすみの意欲に偽りはないのだが、未成年者である以上、殊に病院という公的機関では認める事はできないだろう。

[36] 困り果てた院長と涙ぐむ掃除婦

総合病院(と見られる)の院長として、立場上どうにもできない事情。

[39] 「わたしは、三年前の火じで、家も子どももうしないました」

〈『星』シリーズ 〉では『白鳥の星』『かあさん星』『まりもの星』で火事のエピソードが見られるが、この婦人の言う3年前というと66年版『かあさん星』の火事エピソードが思い当たる(作品的に関連性はないと思われるが)。

[40] 「そうか、君が見てくれるならいいだろう」

かすみ姉妹の病院住み込みの継続は、院長とこの掃除婦の温情によって可能となっている事を記憶にとどめるべきであろう。

[42] 「かすみちゃんはいっしょうけんめいはたらきました。そして、毎日、夕方から花田先生のところへバレエのおけいこにかよいました」

労基法の問題もあり、病院としてはかすみに下働きを公然とさせていたわけではないだろう (*3)。あくまでも「あの子が“どうしても”ときかないので (*4)」というエクスキューズが伴うものであり、またかすみ自身もそのように考えて行動していたものと思われる。そのようなかすみの“献身的行為”とそれを貫く人生観は作中を通じて首尾一貫している。
ところで、この文章とコマには描写されていないが、義務教育である以上学校にも通わなければならない(不登校はさすがに院長先生も認めないだろう)。この大人でもハードなスケジュールの中で、かすみは「バレエ星」台本執筆を続けており、精神的な限界は遅かれ早かれ訪れたに違いない。

「バレエ星」台本の完成 [43~49]

[43] 時間経過「そして、いく日かたちました」
母の死からそれほど経ていない時期と見られ、この時のかすみは台本完成の使命感に燃えて筆を進めていたと思われる。

[44] 踊り続けるかすみ

この時点で見られるかすみのバレエ台本執筆の過程は、「粗筋→演出・振付」の段階を経ず、物語と振付の構想がほぼ同時か、場合によっては振付に物語が付随されるような形で書かれているようである。そのような制作過程もあるいはあるのだろうが、優れた素質があるとはいえ、まだバレエ経験が浅いかすみの力量の範囲内で、演出や振付と一体となった台本の制作は難しかったのではないだろうか。

[47,48] かすみの補筆する「バレエ星」部分の内容

[47]「星のせいにみちびかれて、王子とおひめさまは天国へのかいだんをのぼって行きました」
[48]「ふたりは、天国で愛のデュエットをおどります。まわりをかこむ女神さまや星のせいたち…」

『白鳥の湖』プティパ=イワノフ版(原典版)の結末を思わせるエンディング。[70S3-III : 75]その他で登場する白鳥のイメージといい、この時点でのかすみの補筆部分はチャイコフスキーの“三大バレエ”のような過去の名作をなぞるような傾向がうかがわれる。初めて手がける台本であり、また小学生でもあるため致し方のない事ではあるが、母の思い描いた「星の精の地上への降臨」という本筋から離れてきていないだろうか。
また、この台本執筆にあたっては花田先生の指導なり査読なりをほとんど受けないまま進めている様子でもある。研究所には通ってはいるものの、花田先生とは「バレエ星」についてそれほどきちんと煮詰めた話ができていなかったのではないだろうか。またそのための時間が取れたとしても、先に述べたかすみの花田先生に対して抱いた小さな不信感が、先生との親身な対話を無意識にも避けさせていたのかもしれない。いずれにせよ、客観的な精査を受けないまま書き綴られた台本がどのような評価を受けるのか、この時点ではまだかすみは知る由もない。

[51] 「ママが書きかけていたバレエの本なの」

「バレエ星の本ってなんなの?」と訊ねる[50]のおばさんの問いに答えるかすみ。ここで「白鳥の湖やねむれる森の美女にもまけないような、すてきなバレエ」と付け加えているが、その台本がそれらの大名作に引きずられ、かえって本来の個性を損なっていないか、そこまでの客観的な精査はまだできていないようである。
しかし創作者にとって「名作に負けないような作品を創造する」という意欲は全てに先立って大切である事は言うまでもない。そして、少なくともこの時点でのかすみはそうした夢を見据えてひたすらに追い続けている。

[57] 出かけるかすみと見送るアーちゃん

かすみの服装は、襟とウェストに華やかな花柄の縫取りを施し、黒ベルトが少し大人びた印象のワンピース。満を持して“自信作”を先生に披露する事でもあり、身だしなみにも気合いが入ったことだろう。
一方のアーちゃんは珍しくスカート姿。

[58~64] 車椅子の婦人を助けるかすみ

この婦人とかすみの小さな出会いはこれが二度目。今回はかなり危険な状況に身を投げ出して助けている。[61]の描写では車椅子は池のほとりで止まったようだが、慣性で婦人が池に投げ出されなかったのが不思議なほど幸運とは言える。いずれにしても、この時のかすみの咄嗟の行動が、彼女に対する好印象をこの婦人に改めて刻み込んだようである。この事が、次に訪れる彼女の重大な心の危機を救う布石である事をその後読者は知ることとなる。

花田先生の酷評「幼稚園のおしばい」 [65~90]

[67~76] 台本を読む花田先生「これではだめね!」

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初めは期待しつつ読み通しているが、途中[72]で何かしらの問題点に気づき、[74]で台本全体の内容に不満を抱き、[76]で「これではだめね!」と突き返す。それぞれの場面で一喜一憂するようなかすみの表情の対比が緊迫感を増している。

かすみも、たとえ自信があったにしても、手放しで褒めちぎられるとは思ってもいなかったろうし、多少の修正や注意を受ける事は覚悟をしてもいただろう。しかしまさか厳しく全否定されるとは予想だにしていなかったようである。

[77] 「始めの二まくまではすばらしいわ。でも、あとはまったくだめ!」

おそらく[70]までが、かすみの母がまとめていた第2幕までの部分なのだろう。先の[47,48]のコメントにも言及したように、かすみの補筆した第3幕以降の整合性が作品として体を成していないとの判断と思われ、その事それ自体は頷けない事でもない(…もっとも、読者にはその補筆部分も上記断片でしか知り得ないため、具体的にどの部分が良くなかったのかは知る由もないが)。

話しつつ煙草に火を点ける花田先生。これ以降彼女の喫煙シーンがしばしば描かれる事になるが、このコマが初出。

[78] 「これじゃ、幼稚園のおしばいよ。とてもバレエにはできないわ」

『バレエ星』名言のひとつ、“幼稚園のおしばい”発言。

まだ小学生でバレエを始めてまもないかすみに大きな舞台に通用するバレエ台本を書かせる、またそのような内容を期待するというのが無茶というものであろう。それはそれとして、それならば何故、花田先生はかすみの台本執筆にしかるべき指導なり助言なりをしなかったのか。また厳しくダメ出しをするにしても、今回のこの場面のような突き放した態度はいかなる理由なのか(花田先生の内面に渦巻く想いのあれこれについては、改めて考察を加える)。

一方、かすみからしてみれば、花田研究所に身を寄せてから、あざみさんの意地悪や命の危険と隣り合わせの事故に相次いで見舞われ、母の『バレエ星』台本に取りかかるのに充分な精神的かつ肉体的な余裕が持てなかったのが実情で、花田先生に完成を急かされ、しかも研究所を離れざるを得なくなった状況下での困難を通り越した上での脱稿だった。それだけにそうした気苦労や努力が一切顧みられる事なく頭ごなしに酷評された事は、母を亡くし、頼るべき大人といえば花田先生のみという中で、拠り所なく奈落に突き落とされたのに等しいものだったに違いない。その絶望がどれだけ深いものだったか、花田先生は慮る余裕もなかったようである。

[79] 部屋を飛び出すかすみ

扉まで走り去った軌跡をケリダシで表現しているところが谷ゆき子風。

花田先生には特に何も告げずに部屋を出た様子は、あまりの酷評にいたたまれなくなった事もあるだろうが、その後のかすみの思いつめた行動などを考え合わせると「母親譲りの衝動的な振る舞い」(別記参照)とも捉えられる。おそらくは花田先生が、かすみの性格の中で問題視している一面。

[84] 「花田先生のところをとび出したかすみちゃんは、なきながら、ママのねむっているぼ地へやって来ました」

東京にある花田研究所から海を臨む母の墓所まで、どの位の時間が経過しているだろうか。太陽は日没を示しているようである。

[86~88] 台本を破り捨てるかすみ

[69S2-IV : 9]の脚注でも考察するように、〈『星』シリーズ 〉の主人公の中では比較的思慮深く、自己管理能力に優れているかすみではあるが、母の性格の片鱗を受け継いでいるのか、時に衝動的な想い(母の言葉を借りれば“インスピレーション”)に駆られての行動に出る事がある。この半ば感情的な台本破棄場面もそのひとつと言えるだろう。

[89] 「わたしもしにたい!しんでしまいたい!」

「たかが台本の失敗くらいで」と思われがちだが、[42]のコメントに記したように、かすみの精神的負担はすでに小学生の少女には耐えきれないほどの限界に達していたと見るべきだろう。

[90] 母の墓石にすがるかすみ

日没の海と、逆光で描かれるかすみの嘆きの姿。この大きな絶望感から彼女が立ち上がることができるのかどうか、読者の不安と期待を誘いつつこの回は終わる。

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  • 最終更新:2020-01-08 17:01:57

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