70S3-V (小三・五月号)

バレエ星
掲載 「小学三年生」昭和45年五月号
頁数 扉+18p.
総コマ数 73
舞台 母の墓所/花田研究所/第一病院
時期 前回からの続き(1970年春頃〜初夏?)
梗概 花田先生に「バレエ星」台本を酷評され悲しみに沈むかすみは「死にたい」と衝動的に思うが、友達の洋子がバレーボールチームで努力する姿に出会い、再起を心に誓う。しかしレッスンで再び花田先生に叱責され、さらにバレエ団の六月公演ではひとつの役ももらえず、かすみは前途を悲観して再び死への誘惑に駆られる。アーちゃんが病院に入院する友達から「死ねば天国のママに会える」と聞き、姉に「天国に行きたい」と無邪気に語る。その言葉に背中を押された形で、かすみは医局から睡眠薬を持ち出しアーちゃんとともに服毒自殺を図る。
扉絵 2色/「谷ゆきこ」名義/「かなしいバレエまんが」/アオリ文「★全国の小学三年生におくるなみだのまんが!」/「母の日」に因み、カーネーションを手にして涙ぐむかすみのポートレート。

かすみの心に訪れる死への誘惑

これまでの粗筋説明 [1]

前回ラスト、かすみが「バレエ星」のノートを破り捨てる場面を1ページ大ゴマで描く(再録ではなく、新たな描き下ろし)。

死への衝動の場で出会う友人の姿に、かすみは力づけられる [2~19]

[2] 「ママ!わたしも…わたしも死んでしまいたい!」

母の死から立ち直る間もない時期の台本酷評は、同世代の子供たちよりはしっかりしているとはいえ、まだ幼いかすみにとって心のよりどころを失ったに等しいショックだったのではないか。

[3] 帰路のかすみの影

前回ラストのコマの日没から、すでに宵の口にさしかかっている。

[4,5,10] 遮断機のない踏切

[69S1-III : 29,31]にも見られる「開かずの踏切」ならぬ「開きっぱなしの踏切」。警報機が設置されているため「第3種」に分類される。
この場面では、特にかすみの死への衝動を後押しするような危うさを強調している。

[5] 鉄道自殺を衝動的に想うかすみ

以下[11]まで、死に向かう衝動と、本能的に死を避けようとする自制心のせめぎ合いが彼女の微妙な表情の中に描写される。この時点では、まだ一線を越えるのにためらう意識が残っていたのだろうか。

[9] 「今だ!」

ためらいつつも列車の前に飛び込まんとするかすみの表情。列車の警笛の描き文字「プワン」が読者に危機の臨場感を煽る。

[10] 通り過ぎる列車

かすみは線路の一歩手前に踏みとどまった。轟音を立てて列車が通り過ぎる一瞬に、踏み出しきれなかったかすみの残されていた躊躇の心が、線路手前で踏み込まれる左足の砂煙に表されている。
列車の通過音「ゴオー」と、無機的に鳴り続ける警報音「チンチンチンチン」が、前コマの警笛とともに、死と隣り合わせの一瞬のドラマを彩っている。

[11] 「だめだったわ……。わたしは死ぬこともできないんだわ」

線路に飛び込もうとした瞬間、かすみをためらわせたものは何か。遺されるであろう妹への惜別か、花田先生への配慮か、意識されない生の本能か。
いずれにしても、彼女は一線を踏み越えられなかった自分自身の勇気のなさに、追い討ちをかけるように失望を思い詰める。

[12] ランニング集団に出会うかすみ

「ファイト」は、“スポ根漫画”では定番の掛け声。

[13] 洋子

かすみの友達らしい。おそらく後出の学校(山川小学校)の生徒(同級生かもしれない) (*1)。ランニング集団の他の二人がかすみに気づいた様子で、ほかにも学校の友達がこのチームに入っているのだろう。

[14] 「わたし、バレーボールをやってるの」

昭和45年頃のバレーボールブームを反映しているのだろう。『バレエ星』掲載の「小三」学年誌では翌月号より『アタック アタック アタック!』(大岡まち子画・辻真先原作)が連載開始する。

[15] 勝利への希望を信じ、努力を語る洋子

洋子のポーズ(握り拳と腕)から、この少女が純粋な努力の価値を信じ、それに励まされながら前向きに生きている事が読み取られるだろう。そうした純粋さに、死ぬほどまでに思いつめていたかすみの表情も和らいだかのようである。

[18] 一度もかったことがないのに、あの人たち……、あんなにがんばっている」

「だのにわたしは…」と、一度の酷評で折れてしまった自分の弱さを省みるかすみ。

[19] 「わたしも強くなろう…、あの人たちのように」

友達の努力に励まされて再起を誓うかすみ。
しかし、母から受け継いだ台本を厳しく拒否された現実は、彼女の気づかないところで少しずつ癒しがたい心の傷口を広げていた。

花田先生の叱責に自信を喪失するかすみ [20~34]

[20] 時間経過「思いなおしたかすみちゃんは、それからも、いっしょうけんめい、バレエのけいこにはげみました」
この一文のみを見れば、かすみは「バレエ星」台本の失敗を乗り越え、これまでと変わりなくバレエに取り組んでいるかに見える。
心の傷を思い出させる台本執筆からは一時的に離れ、「今は自分自身のバレエ技術の鍛錬の期間」と割り切っていたのかもしれない。
しかし、母との絆の象徴である「バレエ星」台本ノートを墓前で破り捨ててしまったかすみは、その時に受けた喪失感の深さを完全に克服できたのだろうか。続くエピソードでは、彼女の心の傷が簡単には癒されるものではなかった事を物語っている。

[22] バーレッスンの情景

このコマの描写を見る限りでは、かすみは他の生徒と変わりなく(むしろより優美にポーズを決めて)レッスンを受けているように見える。

[24] 「かすみちゃん そのおどり方はなんなの!」

しかし、花田先生には、かすみのレッスンを受ける態度の中に生じていた変化を見逃してはいなかった。

[25] 「まるでいやいややっているみたいね!」

先に記した喪失感(墓前での台本の破棄に見られる)が、それまでひたむきであったかすみのバレエに向けた意思を迷わせ、目標の定まらないままのレッスンの態度に出てしまっていたのだろうか。
また、台本を酷評した花田先生を無意識のうちに怖れ忌避する心が、彼女の一挙一動に微妙に顕れていたのかもしれない。

[26] 「やる気のない人には、わたしはおしえる気はしません」

かすみが今もなお病院住み込みを続け、研究所には夕方に通うという生活を送っている事は、花田先生から見れば「台本について叱られた事への当てつけ」とも映っただろうか。そうした個人的感情も入り混じった中でのこの日の叱責であったのかもしれない。

[27] 「いやなら、バレエのレッスンやめてしまいなさい!」

単に怠け癖のある、やる気のない生徒に向けてであれば、この叱責も頷けない事はない。しかし、特にかすみに対しての場合、この言葉は禁句ではないか。
母を喪い、たとえ病院住み込みで離れて暮らしているにせよ、花田先生を保護者として頼るしかないかすみにとって、バレエをやめる事は花田先生との完全な関係解消を意味し、それはそのまま彼女を世間に打ち捨てる事に繋がる。まだ小学生のかすみに対して「勝手に野垂れ死ね」と言い放つに等しいその言葉の重みを花田先生は理解していたのだろうか (*2)

[28] 「6月の発表会の配役を発表します」

発表会を最下限で6月末として、かすみの母の亡くなった春から実質3ヵ月程度の期間。

[29] 演目と配役表が張り出される

『コッペリア』
演目については別記事参照。
新作を練習するにはやや厳しいタイムスケジュールという事もあったのだろう。花田先生の酷評がなかったとしても、この6月公演で『バレエ星』が上演できた可能性はおそらく少ない。この年の初め頃[70S2-II : 79]には花田先生が「こんどのはっぴょう会に、バレエ星をやろうと思うの」と言っていたが、その後かすみの病院住込みなど想定外の事情があり、台本完成が母の死後の4月頃まで伸びてしまったことで、6月の上演には間に合わないとの判断もあったと思われる (*3)

『コッペリア』は、おそらく花田バレエ団としてはレパートリーの内に含まれる演目で、多少の短い準備期間でも仕上げられるものだったのかもしれない。

「かすみちゃんの書いた『バレエ星』だとばかり思ってたわ」
生徒たちの意外感。上記に推測されるような事情はあるものの、生徒の多くは同輩の書いた台本で踊る事を少なからず期待していたのではないだろうか。
作中では特に描かれないが、かすみの『バレエ星』台本の完成は、花田バレエ団に所属するかすみの少なからぬ同輩たちにとっても“希望の星”のひとつであったと思われる。 (*4)

[30] 「あれはだめだったのよ。まるで、ようちえんのおしばいみたいな本だったんですって」

Etoile2-70S3-05-030.png
言わずもがなの事を聞こえよがしに口にするあざみさんの表情は雑魚キャラ的なゆがみをもっている。

[31] 配役表に記されないかすみの名前

「それにしても、かすみちゃんの名まえも出てないわ」
『コッペリア』公演の出演ラインアップからかすみの名前が外されているのは、後出のように、彼女に主役のアンダースタディを任せる予定だったためと考えられる。しかし、そうした花田先生の配慮を汲み取る心の余裕が、この時期のかすみには持てるはずもなかっただろう。
『バレエ星』上演が反故となり、その上その作者であるかすみが『コッペリア』に出演しない事に、生徒たちはうっすらと異様を感じ取っているようでもある。

「主役はあざみさんね。かすみちゃんは、なんにも出してもらえないんだわ」
思えば『まりもの星』のライバルにあたる立ち位置のかな子も『コッペリア』をチャリティショーの演目にするという場面があり (*5)、“敵役の『コッペリア』”の印象が〈『星』シリーズ 〉に定着している感なきにしもあらず。“夢の世界”の存在である白鳥姫のオデットのイメージを持つ〈『星』シリーズ〉の主人公に対し、夢想を打ち砕き現実を突きつける『コッペリア』のスワニルダ、というように対置してみると、この配役もあながち的を得ていないともいえないだろう。
一方のかすみの表情は、その後の「なんにも出してもらえない」という言葉により深くショックを受けているようである。

[32] 「役のついた人だけのこって、あとの人は、帰ってよろしい」

花田先生は、かすみにアンダースタディの件を伝えていない。この日はかすみの「やる気のない」ように見える態度[26]に相当腹を立てていたようなので、感情的にことさらかすみとは口をきこうとしなかったのだろう。「役のない人も、毎日のレッスンはやります」と言っているので、翌日来た時にでも伝えればよいと考えてはいそうでもある。

しかし、少女の繊細な心の機微に、その“翌日”が訪れるとは限らない。
かすみの傷心は、花田先生の目の届かないところで深くなっていた。

[33] 帰路のかすみ

「わたしは、きっとバレエのさいのうがないんだわ」
母の願いで10歳の春からバレエを始めたかすみ。しかしその一年ほどの間、度重なる事故や入院で満足なレッスンを受けられなかった事は読者も容易に想像されることだろう。周囲(特に研究所の同輩など)から見れば、その不利な条件にもかかわらず目覚ましい成長を遂げていたはずのかすみだが、その陰では常に自分自身の才能と可能性への疑問と不安を抱き続けていたのではないか。「バレエ星」台本を「幼稚園のお芝居」と断じられた事は、そうした彼女の心許なさ(コンプレックス)を強く揺さぶってしまったものと思われる。

「わたしは、花田先生にも、見はなされてしまったのね」
実質上の保護者である花田先生との関係は、バレエがあってこその絆とかすみは考えているのだろう。彼女が並外れた吸収力でバレエ技術を身につけていったのも、単に素質のゆえのみでなく「花田先生にバレエの面で認められる」ためであったとも言える。[27]にも記したように「“バレエのない自分”は花田先生にとって保護するに値しない存在である」と、かすみは思いつめてしまっている。

[34] 「やっぱりあのとき、しんでしまった方がよかった…」

かすみの心が虚無の闇に呑み込まれる瞬間。
彼女は再び死への衝動に急き立てられる。

「天国に行きたい」アーちゃんの言葉にかすみは… [35~50]

[36] 花ちゃん

アーちゃんと歳まわりが同じ位の子供なのか、掃除の手伝いで病室を訪れるうちに親しくなったのかもしれない。周囲がほとんど大人ばかりの病院内生活でできた数少ない友達(のひとり)なのだろう。

[37] 「だって、死んだら、天国にいるママのところに行けるんだもの」

病気が治らない方がよい、という花ちゃん。母と死に別れている上、入院生活の続くうちに、先行きの人生に希望が見出せないのだろうか、幼い子供の虚無に胸が痛む台詞。

[38] 「花ちゃんのママも死んじゃったの?」

前回の母の臨終で号泣したアーちゃんだが、花ちゃんの言葉へのその後の反応から、その死の実感はどのようなものだったのだろうかと考えさせられる。
アーちゃんは生と死の隔たりを大人よりも(そして姉であるかすみよりも)緩やかなものと捉えているようで、その隔たりを乗り越えるための“生からの完全な離脱”というプロセスを深刻なものとして考えていないようである。「天国に行けばママに会える」ーーそのポジティヴに見える一面のみで、彼女は素朴に死後の世界を想う。

[45] すでに帰宅していたかすみ

彼女の表情は今までになく虚無的に描かれている。すでに彼女は自死を決意し、生のためらいは消え失せている様子である。

[46] 掃除婦のおばさんの不在

折悪しくこの日は、いつもならば面倒を見てくれるはずのおばさんがいない。かすみの自死への衝動を後押しする逢魔時となってしまった。

[47] 「おねえちゃま、アーちゃん天国に行きたい?」

さらにアーちゃんのこの無垢な一言が、かすみの死への想いを強めてしまう事になる。
アーちゃんの台詞の文末にある「?」の意味は量りかねるが、「行けたらいいな」といったニュアンスの語調と考えてもよいだろうか。もちろん誤植の可能性は高いが。

[48] 天国でのママとの再会を夢想するアーちゃん

[38]コメントにも記したように、アーちゃんは死のプロセスを明確に理解していない。しかし、その視線の彼方にある“天上の甘美”は、かすみにある決心を起こさせるのに充分なものであっただろう。

[49] 「アーちゃん、ほんとうに天国へ行きたい?」

年長者であるかすみは、死のプロセスがどのようなものであるか、生者があえてそれを踏み越えるという事はどういう意味を持つか、という事を当然弁えている。
この姉妹の認識のすれ違いが、取り返しのつかない事態へと二人を誘う事となる。

そして、薬局から睡眠薬を持ち出したかすみは… [51~69]

[51~55] 院内の薬局から薬を持ち出すかすみ

[55]でかすみが持ち出したのは、後出の描写では睡眠薬のようであるが、睡眠薬は他の漫画作品でもしばしば薬物自殺シーンの小道具として描かれている。
かすみのした事は大変な問題行動ではあるが、夜とはいえ、子供が容易に入って薬物を取り出せてしまうような甘い管理体制は、当然病院としての責任を問われる重過失と捉えられるだろう。この事件がその後、かすみにかかわるスキャンダルの嵐でも表に出た様子がなかったのは、この件に対して病院側がかなり厳しい箝口令を敷いて表沙汰にならないようにしたためかもしれない。

[69] 天国の母のもとに飛ぶかすみ姉妹のイメージ

Etoile2-70S3-05-069.png

母のバレエ姿は『ジゼル』第2幕で主人公・ジゼルが幽霊として登場する場面【動画】に想を得ているものと思われる。死のメタファーとしてふさわしい題材といえるだろう。


花田研究所への急報 [70~73]

[72] カーテンを開く花田先生

窓から日の差す描写。連絡を受けたのは日の出間もない早朝だろうか。

[73] 「ふ、ふたりが、し、死んだ!?」

読者には、このコマの花田先生の表情・台詞と背景の描写、右枠外のアオリ文「★ふたりは、ほんとうに、死んでしまったのでしょうか…」で、かすみとアーちゃんの死を予感させられる。

「バレエ星・かすみちゃんコーナー」案内

しかし、その死の予感のコマの左隣のページに読者の便りを呼びかけるコーナー。
子供心にも「かすみ姉妹の死は物語的に(あるいは雑誌掲載の都合的に)ありえないだろう」と確信させられてしまう瞬間。

F2-Kasumi.png


  • 最終更新:2020-01-11 17:37:08

このWIKIを編集するにはパスワード入力が必要です

認証パスワード