さよなら星 |
掲載 |
「小学四年生」昭和47年十一月号 |
頁数 |
扉+10p. |
総コマ数 |
27 |
舞台 |
ロンドン、シティ劇場 |
時期 |
1972年秋 |
梗概 |
舞台袖の事故で“さよなら”してしまったゆり。しかしすずらんは翌日の舞台を立派に踊りぬくと誓う。そして『白鳥の湖』公演の日、すずらんはオデット姫を見事に踊りきる。万雷の拍手の響く舞台。その裏で、すずらんは突然心臓の発作を起こし倒れてしまった。父から贈られた花束を抱え、第一スター女性舞踏手称号授与の報告を聞きながら、すずらんはそっと目を閉じる。その彼女の耳には、空の星となった母とほしお、そしてゆりの声が聞こえていた… |
扉絵 |
単色/「谷ゆきこ」/「★かなしいバレエまんが」/花束を抱え、ステージライトを浴びるすずらんの舞台姿 |
そして誰もいなくなった…
☆ これまでのお話 [1~3]
[3] 「柱の下じきになって」
前回の描写を見る限り、倒れた柱の下敷きになったのではなく、はずみで倒れてきたライトで頭などを強打したものと思われる。
★ 舞台裏・前回からの続き [4~6]
[5] 「あしたからのぶたいは、代役をたてましょう」「それは……」
藤先生は代役を立てる事に消極的に見える。そのためらいの理由は何か。
- 「芸術家は身内の不幸があっても舞台を全うすべき」という精神論か。
- あるいは、自分の生徒が海外で実績を上げるチャンスを棒に振ってしまう事への体面か。
- あるいは、…
藤先生の真意は措くとして、しかしこの状況下であっても、今のすずらんは舞台を投げ出そうなどとは思わないだろう。
[6] 「おどらせてください。ゆりちゃんのためにも、きっとおどりぬいてみせます」
舞台に対する責任と踊ることへの渇望を見せるすずらん。最終回に至って、ようやく彼女の舞踏家としての自我が確立したようである。先生(藤先生ではない方)はその事を既に理解していたと思われるが、それでも唯一残された肉親の死を前にしたすずらんに対して[5]で優しい心遣いをみせている。
★ すずらんの最後のステージ [7~27]
[7] ロンドン・シティ劇場
架空の劇場。コヴェントガーデンの劇場をイメージしているようである。
[8] 観客席に父の姿
娘すずらんについての記憶が完全に戻ったのか、記憶には明確に留まっていないが周囲の状況からそう判断せざるを得ないと理解したか、いまだに記憶は戻らないが自分に父の面影を見出そうとした少女舞踏家への単なる思い遣りなのかは、ついに説明される事はない。ただ自分の贈った花束を「(私の)パパからのもの」として彼女が受け取るであろう事は知っている。なお「眼が見えないはずなのにバレエ観劇とは…」という言わずもがなのツッコミは、この場合全くもって野暮である。
[9~13] 『白鳥の湖』
舞踏家ワルーイ・ヤッツ氏の演じるロットバルトが描かれる。またこの場面のモーリス君は前回よりも青年のように見える。衣装も一般に見られる“バレエ舞台の王子風”である。
『白鳥の湖』の舞台は、
別考察にも記したように、悲劇的結末からハッピーエンドまで、さまざまな演出版がこれまで世界各地で上演されている。この『さよなら星』で上演された舞台は「
王子はかなうはずのないロットバルトにとびかかり[12]」「
ふしぎな力が出て、王子はロットバルトをやぶることができ[13]」た、という形で結ばれ、イギリスで広く上演されていたであろう「オデットと王子は死によって結ばれる」といった内容
(*1)とは若干異なるもののようである。どちらかといえば、当時旧ソ連で頻繁に上演されていたゴルスキー版やセルゲイエフ版、あるいはオデットが人間の姿に戻るエピローグを加えたブルメイステル版に近い印象を受ける。
なお「死んでオデットにわびようと[12]」という部分は、極めて浪花節的、日本的メンタリティが濃厚である。あまり聞いたことがない。
[18] 「ずっと前から、心ぞうがわるかったの」
すずらんの心臓疾患について、あえて強引に遠い伏線として結びつけられそうな事象は何ヶ所か列挙できないこともない。しかし、片足縄跳を少なくとも千五百回は平気でこなす持久力、そして北海道の豪雪でも風邪ひとつ引かなかった頑強な体力を持つすずらんがそのような重篤な疾患を持っていたとは、隠していたにしても常識的には考えられないだろう。設定の破綻と言い切ってしまえばそれまでだが、その事も勘案した上で別途考察を要する事項ではある。
なお、舞台裏で病に倒れるバレリーナの姿は、過去の谷作品では『白鳥の死』(1959) にその先駆が見られる。
【追記】“心臓の弱い踊るヒロイン”は『ジゼル』を遠くイメージさせるものでもあるとも言えるだろうか。その意味では、すずらんと藤先生の関係に、ジゼルと公爵の影を見出せない事もない。
[19] 「すずらん、なんてことを……」
藤先生が生徒の健康状態について無頓着であろう事は、無定見に片足縄跳二千回を強要するくだりなどからもうかがわれる。しかし、ことすずらんについては、同じ屋根の下で共に生活していた関係でもあり、普通ならば今更知らなかったでは済まされないだろう。
藤先生が「指導者として極めて不適格」と言わざるを得ない人物である事は当管理人が再三指摘するところではあるが、ただ「心臓が悪かった」云々というこの件に関する限り、藤先生が知らなかったとしてもやむを得ないのではないか。本作のドラマトゥルギー「読者への“騙しの幻惑”」を思い起こせば、この心臓疾患がすずらんの思い込みである可能性はゼロではないのである(各論参照)。
[23] 「あなたに、エトワール第一スター、女性ぶとう手のしょうごうがおくられたのよ」
「エトワール (Étoile = Star / 星)」の称号はパリ・オペラ座で用いられ、アングロ・サクソン系でこれに当たる称号は「プリンシパル (Principal)」が一般的。フキダシ内の日本語の区切り方が混乱させる
(*2)が、「第一スター女性舞踏手」とすれば、英語では
the principal star dancer という具合の呼び方となり、このバレエ団独自の称号として自然に受け止められるだろうか。先生が仮説のようにテレーズ先生と関係のあるフランス系だとした場合、「貴女に(オペラ座での)エトワール、(つまり)第一スター女性舞踏手の称号が贈られたのよ (Écoute bien, Suzuran … on t’a ordonné l’Étoile –– c’est-à-dire ‘the Principal Star Dancer’; c’est très honorable pour toi!)」といった具合の言葉が想定されよう。
[24] 藤先生の腕の中で静かに目を閉じるすずらん
感涙にむせびすずらんに優しく労いの言葉をかける藤先生の姿は、おそらくはすずらんが心の底で願っていたものなのだろう。物語を振り返ると、すずらんが藤先生という存在に抱く感情は、先にも記した「父性への憧憬」のほか、例えば
楳図かずお『洗礼』に描かれる主人公の少女・上原さくらが担任の男性教師に抱く
恋情に通ずるものがあるようにも思える。
ただ、これまで再三指摘してきたように、藤先生には物語の表層には表されない不透明な側面が見え隠れしている。また、作中では精神論やパワハラですずらんを拘束する傾向の見られた藤先生は、オデット(=すずらん)に対してのロットバルト的存在とも見ることができるだろうが、作中舞台のハッピーエンドで終わった『白鳥の湖』とは裏腹に、本作のロットバルトはこの物語終了後も現世でのうのうと生き永らえ、オデットはその苦悩の生を死によって浄化するしかなかった…
…その観点からこのコマを見た時、なんとも言えない不条理感をつい抱いてしまうのである。
[27] ラストシーン
高い夜空につながる階段は、簡潔な描写であるが、本作
連載第1回に描かれるほしおの“天国への階段”の情景を思い起こさせるだろう。
「
たえること、それが、バレリーナへのだい一歩だからです」
[72S4-V : 21]という言葉に象徴されるように、本作における主人公とバレエの関係は“現世を離脱するための即身成仏の苦行”といった印象を与える。このラストシーンの「
長い、つらいバレリーナへの道を、悲しみに堪えて歩いてきた」という語りからは、踊る事に自らの生命の充足を見出した他の〈『星』シリーズ 〉の主人公たちとは一線を画した悲壮感を抱かされざるを得ない。すずらんにとって、バレエの道を選び歩み続けてきたことが本当に彼女にとっての幸せだったのだろうかーーそのような虚しさすらこのラストシーンには漂っている。
谷ゆき子の〈『星』シリーズ 〉の中でも一際ペシミスティックな本作は、救済への読者の淡い期待を裏切り続け、連載開始1ページ目の主要登場人物すべてが“さよなら”するという結末を迎えた。無神経なまでの不吉さは終始一貫している。
しかし…